温泉喇叭港房
このようにして出来た大阪港は、その成立の原因自体が自分自身の首をしめる羽目になります。つまり流出する土砂が堆積し船舶の運行を妨げだしたのです。そこで天保2年(1831年)、「天保の大川浚」とよぱれる大工事が行われました。大阪永世繁昌の為の工事ということで、町人の熱の入れ方は大変なもので各町十人の指示にもかかわらず、300人の人足を出す町もあり大阪中が御祭り騒ぎとなったそうであります。その様は天神祭よりも賑やかでこの為に芝居が不入りになってしまった程でした。この工事で浚った土砂を盛って作ったのが「天保山」であります。結果的に川の上流から流出した土砂は土地だけでなく山までも作ってしまいました。天保山には松や桜が植え付けられ、茶亭も設けられて四季を通し大阪町人に親しまれる名勝となりました。ところか安政元年天保山沖にロシアの軍艦が現れてから様相は一変します。樹木を伐採し山を切崩して砲台を造り、黒船に備えたのです。天保山はその後、明治30年から行われた埋立て工事に使用され跡形も無くなりました。
この頃大阪で初めての市電が花園橋ー築港間に敷かれました。当時築港には大型船が同時に8隻も横付け出来る大桟橋が建設されるなど、l904年に勃発する日露戦争の前線基地としての整備が急がれていました。つまりこの市竃の開通は築港の開発に付随して実現したものだったのです。5両あった市電のうち1両は2階付電車で、ぞの電車には釣竿を置くことが出来るようになっており、終着駅でもある大桟橋に停車中、釣を楽しんでいたそうです。そんなところからこの電車は魚釣り箪車、納涼竃車なととよぱれていました。大桟橋も同様に魚釣り桟橋、納涼桟橋とよぱれていましたがそれは親しみを込めた呼び名であると同時に冷ややかな皮肉を含んでいました。神戸港や堺港に追い付き追い越せと起工した大阪港ではありましたがその工事は幾度もの苦難に見舞われ、その完成を見るのは明治30年の者工後、33年を待たなけれぱなりません。
1920年前後の大阪には今もなお残っている洋風建築が数多く建てられました。温泉らっぱ港房内に残る煉瓦倉庫の壁もこの頃のものです。大正3年(l9l4年)には築港大潮湯という、海水を利用したヘルスセンターのようなものが造られました。温泉やプール、それに余興場もあり、そこでは活動写真、芝居、姫太夫等を観ることができました。大正14年(l925年)には市岡パラダイスという、広さl万2千坪を誇ろ総合娯楽場ができました。場内には太劇場や映画館、演芸場がありチャップリンやキートンの洋画も上映されたそうです。おもしろいことにここにも千人風呂とよぱれる大浴場がありました。更にスケートリンクもあり、日本の屋内スケートリンクの草分けだったそうです。そして1934年、大阪に室戸台風が上陸します。高潮で港区は水につかり、大桟橋も大潮湯も市岡パラダイスも崩壊してしまいました。l937年、完成から8年を経た大阪港は産業的な最盛期をむかえました第二次大戟後から1980年頃までの港区はそれまでののどかな,囲気とはうってかわって、工業地帯に囲まれた土地となってしまいましたから、大阪市では最も海に近い場所にいなから、倉庫や工場に阻まれて、港に関わりのない住人は普段、海を感しすに生活していました。ただ時折香る潮のにおいや、船の汽笛の音だけが日々の生活のなかにおだやかにまぎれこんできていました。年明けの時刻に、除夜の鍾でばなく、停鉛中の船かー斉に鳴らす汽笛の音を聴いて新年を迎えたことを実感する人々も当時は少なくなかったようですが今ではその音の響きも小さくなってしまいました。しかし当時の港には港湾運送にたずさわる人々が6万人もおり、その数は全国一、船頭とよぱれた水上生活者は1万人を数えました。大阪港に注ぐ安治川を舞台とした、宮本輝の「泥の川」の時代背景はl956年、、1920年代には盛んだった船旅も少なくなり、大阪の玄関としての役割をほとんど失ってしまったこの頃の港区は大阪市の中でもしすこし忘れられた町です。地埋的にも、南北には渡し船だけの橋のない川、西は大阪港と袋小路のような土地だったので、大阪に住んでいる人でさえあまり来たことかないといわれた町だったそうですが、この頃であっても、或いは、醜く汚らしく雑然としたこの時代こそ、港区は道頓堀や梅田に負けることのない、個性的な空気を携えた場所だったといえるのかもしれません。1990年代に入ってから後の大阪港はまたもや大きく変化します。天保山の隣には世界第ー級といわれる海洋生物展示施設である「海遊館」や、世界各地の衣、食文化に触れられるというふれこみのマーケットプレースなどができました。海洋生物がほとんどいなくなり、海外との物流も殆ど途絶えてしまったこの港区にこういったものが建ってしまった事もひょっとすると、とても港区らしいことかもしれません。こういってはなんですが、銭湯でしばしば見られる富士山の絵。風光明媚な場にある露天風呂を摸して人工的に効能の加えられた湯につかりながら絵を跳めている光景は、市岡パラダイスや築港大潮湯にも通じる、港区のある一面を象徴しているものです。
l993年、煉瓦倉庫に続き、温泉らっぱ港房に残る二番目の構造体が造られます。当時廃線となっていた港湾線を利用し、JRが三井から、使われなくなった倉庫の土地を買上げ、建造した列車倉庫がそれです。集積度をあげるため、立体駐車場の様に、両端に設けられたリフトによって持ち上げられ、5層のゆるやかなカープを描くプラットホームに納められました。単純な四角いボリュームではあまりにも味気ない。港に造るのだから船の形をしていれぱおもしろいのではないか。それに、どうせ上に持ち上げるのだからl階は人々に開放したピロティとして港を楽しんでもらおうということでその形が決定されたそうです。当時は「空中船」などとあだ名ざれていました。約l0年後、JRの地下鉄道化に伴って地下倉庫が梅田につくられ、結果、この施設は使われなくなり、しぱらくは廃構となっていました。その後、港湾倉庫の土地をある企業が買い取り、この構造体も土地ごと買い取られました。広大な面積の土地に巨大な遊園地がつくられることとなりましたが、この遊園地の最大の呼び物として、なんとこの構造体を利用して世界最大といわれるスチームオルガンか造られました。多量の水蒸気を発生するこの楽器は船で対岸まで行かないと正しく聴くことかできず、またそうして離れてしまうと、企画のコンセプトであった「船の鳴らす霧笛」のイメージを連想する人はほとんどいなかったようです。その後このオルガンの南側の土地は入り江となり(掘った土は大阪市に売却し、大阪港の埋立てに使われたそうです)、日本丸やクイーンエリザベス三世などが寄港し、イペントが行われました。オルガンも高性能化し各々のパイプが約4オクタープの音程を出すことができる様になったため、もはやオルガンとはいえず、強いていえぱからくりプラスパンドといったところでしょうか。この改造時、パイプの納められているボックスの構造が強化され、その上部が展望台となりました。合昌者や演奏者がここに昇り演奏したそうです。ー方、この敷地の近くでは地盤沈下対策のための地質調査が行われ、ボーリングの際、偶然にも温泉が湧きました.この土地には昔から幾つかの温泉が湧いていたのです。この温泉の権利を遊園地の経営者が買い取り、園内にば大浴場がつくられました。偶然にもこの遊園地の名は「パラディソ築港」。この後、園内にはスケートリンクが作られたのは言うまでもありません。この遊園地が閉鎖され、しぱらくは再び廃構となっていましたが、この構造を利用して、ここでようやく当「温泉らっぱ港房」作られることとなったわけです。楽器は楽曲を演奏するでもなく、効果音として時折鳴り響き、湯気を吐き続けます。ラッパの入ったボックスは展望台として利用しております。(少し手を加え、冬には展望台は水蒸気によって床暖房されるようになっております。)フロア面積の関係で小きなものとはなってしまいましたかでかつて走っていた列車やリフトを復活し当施設への専用の交通機関といたしました。ここにやって来る時もここから帰る時もここから約3km離れた駅を経由しなけれぱなりません。まさに袋小路です。(なお、この線は昔どうり環状線に接続しております。)よってこの建物の港区側、つまり北側のファサードは極端に閉鎖的な表情となり、日に日に人々に開放的になるウォークーフロント開発の中にあってひときわ異様な存在となっております。また、入り江には船が数多く入り込み、様々な施設が文字どうり流動的に作られています。僅かに残った地面や楽器の内部、今では屋根も朽ち果ててしまった倉庫内などには仮設的な店舗や芝居小屋などか作られていますが、これらの施設は、入り江の場合も地上の場合も、船や列車に乗り、当地から流出し、様々な地に流れ着きます。流出して出来た土地から再びものが流出するわけです。また当施設内には舟を建造するドッグもあります。ドック内で発生する様々なノイズもラッパの音色とあいまって皆様のお耳に心地好くお届けすることができれぱと思っております。例の温泉もリニューアルして再ぴ楽しんでいただくことができるようになったわけですか、ドーム型の浴場内は360度大パノラマスクリーンとなっており、富士山はもちろんのこと宇宙遊泳も可能です。(この夏、浴槽の水深を深くし、塩分浪度を上げて疑似無重力状態を作り出す企画を考えております。おたのしみに。)浴槽の湯はヒーターによって温められていますが、このヒーターは水蒸気を作り出す機能を持っております。この水蒸気はパイプを通ってラッパに供給されるわけですが、実は風呂の湯はこのヒーターの第一次加熱水であり、同時に冷却水でもある訳です。
ここまでお読み下されぱもうお分かりの事とは思いますが、皆様がもしもいつか再び当施設に足をお運びになっても、もう既に温泉らっぱはかつての温泉らっぱではないはずです。諸行無常、ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらすと申します。ひょっとすると影も形も全くなくなっているかもしれません。でももし何かの形で私たちを忍ぶものか残っていたならぱ、少し立ち止まってみてください。そのとき皆様が何かを懐かしんで下されぱ、それこそ温泉らっぱ工房の実体であると私たちは考えます。記憶とは常に希薄になってはいくものの、それは他の様々な記憶とつながったり、交ざりあったりした結果であり、成熟していきこそすれ、失われはしないと考えたいと思います。ひとにとって出来事は次の瞬間には記憶となってしまいます。時間軸に沿って蓄積される記憶はしぱらくするとこの軸が曖昧になり、エントロピーの法則に従ってぱらぱらになってしまいますが、意図しないで出来てしまった、都市の無価値な紀憶もそんなところがあります。温泉らっぱは偶然にもある一人の人間の思い入れに合致したガラクタがほんの一瞬、都市の片隅に現れたものにすぎません。ですから刻一刻と変化し、形を失ってしまうことは仕方ありません。しかし、人々の個々の記憶にまぎれていくために、私たちはいなくなってしまうことこそ大事だと考えます。本日はわざわざ足をお運びくださり有り難う御座いました。一期一会とはよく言ったもので、もう二度とお会いすることもないでしょう。もしもお時間が御座いましたら、皆様がそれぞれの温泉らっぱ港房を造って戴きたいと思います。
それでは皆様さようなら。